雄猫のチーちゃんは、二階に上がったまま下に二日ほど降りていな
かった。
一階の玄関に猫のトイレが置いてあるので、おしっこはどうしたん
だろうと母が心配していた。
僕は暑いから汗で出るんじゃないかななどと勝手なことを言っていた。
そんなことより、雌猫のミーちゃんがいなくなって三日目になって
いたので、そちらの方が心配だった。
やはり死に場所を探して出て行ったんだとか、そう言えば出て行った
前日の夜にめずらしく母の布団に来てしばらく寝たのであれはお別れ
の挨拶だったんだとか言いながら母は覚悟を決めつつあった。
ゴルフ練習に出ようとして、バックを見たらなぜかぬれていた。
もしやと思ってかいだら、とても臭かった。やられた。それは、
チーちゃんのオシッコだった。すぐに水洗いしてから洗濯機に入れて
洗った。
夕方母が買い物から帰って、風呂場から猫の鳴き声が聞こえたので
行ってみたら、ミーちゃんが寝ていた。母は大喜びだった。
僕も本当によかったと思った。生きているものはいつか必ず死んで
しまうのだが、それが今日でなくてよかったのだ。
ミーちゃんは今日も生きていたのだ。生きているものは、すべて
死と隣り合わせに生を維持しているのだ。それはとても有り難い
ことなのだ。だから感謝の気持ちが起こるのだ。
生きていることの奇跡を感じる機会になった。
生きていることはそれだけで奇跡であり、すばらしいことなのだ。
母は、「ミーちゃん、生きとったん」と喜び、そして笑った。
僕も「そりゃよかったなあ」と笑った。うれしいと人は笑うのだ。
笑える人は幸せなのだ。その笑いを意図的に作り出すのが笑いヨガだ。
ゴルフ練習場の行き帰りに、車の中でたくさん笑った。そして
帰宅後、ヨガニドラの練習をした。暑さで疲れていたのか途中で
寝てしまった。ハハハ。
弟が夜遅く、電車で帰省してきた。明日からがまた楽しみだ。
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